広甘藍とは

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広カンラン生産協議会

広甘藍の生産を本格的に始めた際に立ち上がったのが「広カンラン生産協議会」。「作る人」「売る人」「買う人」、さらに行政とともに、より良い広甘藍の生産のために、様々な情報交換を行い、ともに呉市の農業の未来を開こうとする組織です。一時期完全にすたれた広甘藍をもう一度郷土の産物として発信します。

広甘藍の生い立ち

呉市広町が発祥と言われるキャベツの仲間「広甘藍」。いわゆるキャベツ。ヨーロッパでは野菜より薬草として用いられ、古代ギリシャやローマでは胃腸の調子を整える健康食として食べられていました。現在日本で普及しているものは、12世紀から13世紀のイタリアで品種改良されたものが起源とみなされ、18世紀にアメリカへ渡り肉厚で柔らかく改良が進みました。
日本には幕末の1850年代に伝わり、明治にかけて外国人居留地用として栽培されていましたが、一般の日本人が口にすることはありませんでした。1874年(明治7年)、内務省勧業寮がのちの三田育種場で欧米から取り寄せた種子で栽培試験を行ったのが、本格的な生産の始まりとされています。その後、試験地は北海道に移され、北海道開拓使が発行した「西洋蔬菜栽培法」に、キャベイジの名で記載されています。 1893年(明治26年)には外国人避暑客のために、長野県軽井沢町で栽培が始まり、1945年(昭和20年)頃まで、「甘藍(カンラン)」と呼ばれてました。 日本の風土気候に合うよう、大正時代に品種改良が進められ、栽培は北海道のほか、東北地方や長野県で拡大しましたが、洋食需要が限られていた戦前にはそれほど普及しませんでした。戦後、食糧増産と食の洋風化が相まって生産量は急激に増加していきました。それに伴って病気に強く生産性の高いものに改良されていきました。

また害虫(モンシロチョウの幼虫アオムシ)に弱いために大量の農薬を使い、より大きく手がかからないものが市場に出回るようになりました。
古くから呉市広町一体で作られていた「甘藍」は品種改良された「強くて農薬を使うキャベツ」に変わり、作られなくなっていったのです。

広甘藍復活!

明治末期から呉市広地区で育成され、大正後期に市場において高い評価を得た。これ以降、栽培農家は増加の一途をたどり、最盛期には約200ヘクタールで栽培されていたといわれるキャベツ「広甘藍(ひろかんらん)」。
しかし、50年ほど前からその姿を見なくなり、絶滅したとも言われていました。
永く呉市農業振興センターは広甘藍の種子を保存し、家庭用に苗を配布するなど地道に広甘藍を守ってきました。
農業者の高齢化の進む呉市では、農業者の収益アップを図り、高齢化の進む地域に担い手を育てようと、広甘藍のブランド化に取り組むことになりました。呉市農業振興センターの呼び掛けで、まずは生産者と広甘藍の歴史や生産方法などを学ぶ勉強会を開催し、2010年6月に広カンラン生産組合を組織しました。こうして広甘藍の生産に市を上げて取り組むことになったのです。
トマト以上の糖度が計測される広甘藍。柔らかい葉と甘味が特長ですが、そのぶん虫が付きやすいのが難点です。
農業振興センターでは実際に育てながら、より良い広甘藍を作るべく、丁寧にデータを取り続け、生産者とともに強い土作りも行っています。また一つ一つの畝に防虫ネットを張り、手間がかかっても減農薬栽培に努めています。
生産者と農業振興センターがともに地域の活性化につながる広甘藍の生産を行っています。
2016年、現在は20軒の生産者で約2.4トンの生産量になりました。

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